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Vol.08 「能役者の責任」

近世の名人といわれる先代(十四世)六平太、先々代梅若万三郎、野口兼資、松本長達先人の舞台を実際に眼のあたりにした大先輩方からその素晴らしさをよく聞かされた。頷きながら想像はしてみるものの実際観ていないのでいまひとつ実感として湧いてこない。その中では唯一、六平太先生(十四世)の晩年の仕舞を拝見したに過ぎない。後にビデオで六平太、万三郎、弓川師の舞囃子を観たが正直想い描いていたものとは全く違っていた。形や動きの美しさは見えても心の動きを伝える気迫までは映像からは届かない。料理番組から美味しい匂いが伝わってこないのとは少し違うかも知れないが、目に映る姿、形だけで、心にぶつかってくるものが何もない。能のいちばん大切なものはその見えないところにあり、それは能の大半を占めているように思えてならない。
六平太先生のビデオが出される時、実先生が「こんなものじゃないんだ、親父のイメージがこわれるよ。やめてくれないか、と真剣におっしゃっていた言葉が耳に残っている。その名人達の舞台を観た人もいなくなり、口にする人もなくなってしまった。当時居合わせ観ることができた人々の幸福、一期一会、舞台は生き物。それだけに魅力が尽きないのであろう。もしかしてと感動を期待しながら舞台に足を運び、裏切られ、今度は、との繰り返しで観に来られる方が大半ではないだろうか。
この度の「ユネスコの世界文化遺産に日本の能認定」の報に慶びや驚きよりも何か釈然とせず、広辞苑を開いてみた。文化遺産の項「将来の文化的発展のために継承されるべき過去の文化」とあった。なるほどこの過去の文化(遺産)という言葉がどこかに引っかかっていたのである。これではまるで絶滅寸前のイメージではないか。懸命に汗を流し、微力ながらも毎日舞台に、稽古に、心血を注ぐ私共にしてみれば、葬られはせずとも冷や水を浴びせられた思いをうけたのは私だけであろうか。素直に能が世界的に認められたという嬉しい気持が全くないわけではない。日本にはこんなにすばらしいものがあるではないか、大切に伝承しなさいよ、と能を国際レベルで評価し、外からの激励である、とも思いたい。また日本人は自国の文化に能という世界に誇れるものがあるのに、理解するどころか、観たこともない人があまりにも多すぎることへの警告の意味もあるのではないか。外国の人が能ってどんなもの、と聞いても答えられる日本人がほとんどいないのは情けない。教科書からも能の教材が消え、国内よりも外国に出かける方が多い能楽師の出現、海外での反響著しい装束展などのことを思い合わせれば日本の能絶滅寸前とみられても仕方のないことかも知れない。現代に生きる我々能役者の責任は重い。

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