プロフィール

喜多流能楽師 塩津哲生の経歴を紹介します。
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1945

喜多流能楽師塩津清人の長男として熊本に生まれる。
敗戦濃い1月の生れ、その8月には終戦。
激動の時この世に出てきました。

1950

能「桜川」の子方で初舞台。
能には子供の役があり、それを子方と呼びます。
世の中はまだ戦後の復興ままならない状況で、今のようにカセットテープもビデオもない時代でした。
小学校にあがる前で、字も読めず、意味など全く解せなかった私は、厳しい父のもと、おおむ返しに謡って謡を覚える、回数やって身体で型を覚える、という修行の第一歩を踏み出したのでした。

1957

能「経政」で初シテを勤める。
シテとは主役のこと。ちやほやされる子方の役からの卒業を意味します。
中学一年、世の中が少し能のような趣味のことに目を向け始めたころでした。

1959

14才で十五世喜多流宗家喜多実師のもとへ内弟子修行のため上京。
ある日いつもは厳しい父がいつになく優しく「東京に行くか?」と私に尋ねました。私は、なにかとても楽しいことが待ちうけているかのように錯覚し、銀座、渋谷という地名に憧れもあり、二つ返事で「はい」と言ってしまったのでした。8月24日の夜行列車〈阿蘇〉で上京しました。
そこには文字通りの師匠宅に住み込む、辛く厳しい内弟子生活が待っていたのです。

1965

父清人の古稀祝賀能で猩々「二人乱」を、塩津清人と舞う。
能の中に「猩々乱」という曲があり、それを二人で舞う特殊演出があります。能の曲目の中でも体力的にきつく、技術的にも高いものが求められる難曲とされています。

1970

「翁」を勤める。
能の中で最も神事に近い曲であり、技術的な稽古はもちろん必要ですが、それと同じくらい精神を清らかにすることが求められます。
本番前の一定期間、別火(べっか)と言って家族、女子供と別の火で、精進料理すなわち肉、魚類を摂らない食事をする清めの行事を行います。

1971

「道成寺」を披き12年の宗家内弟子としての修行を終え独立。
つらく厳しい内弟子生活の総集編として師匠である宗家から許しを得て舞わせていただく、内弟子誰もが目指す能の中でも最高峰に位置する曲目です。

1972

「石橋」の獅子を勤める。
この曲には赤獅子<子獅子>と白獅子<親獅子>があり、まず子獅子から勤めます。
全ての型を子獅子はきびきびと演じ、力強さと若々しい動きを必要とされます。

1985

財団法人能楽協会理事に就任。

パリ、ガブリエル劇場で能公演を催し、絶賛の好評を博しました。
この時は全国の哲門会(塩津哲生の素人門下)50名を越す団体でヨーロッパ旅行を兼ねて計画されました。

1986

日本能楽会会員に推挙され、重要無形文化財総合指定を受ける。

ドイツ、ハイデルベルグ市と熊本市の友好都市締結による日本週間に熊本市代表として派遣され、能公演を催しました。
前回のパリ公演の好評が奏し、今回は総勢95名の大所帯で、成田空港、専用待合室に於いて哲門会結団式を執り行っての出発となりました。

1989

サンフランシスコを皮切りにニューヨークまで7ヶ所のアメリカ公演参加
公演地が多く、西海岸と東海岸をまたがるもので、駆け足だった記憶しかありません。

1990

国立能楽堂養成課シテ方主任講師となる。
プロの能楽師減少に歯止めをかけるべく、国の事業として始まった養成なのですが、なかなか厳しい稽古に耐えられるものが少なく難しい現状を目の当たりにしました。しかし、現在も事業は続き、数年に一人くらいのペースで玄人が育っていっています。

今上天皇の礼の折、奉祝能「石橋」喜多六平太の子獅子を勤める。
厳しい警備の中、出演者一同外務省に集合し、装束全てに検査が入り楽屋入りしました。普段と違う緊張をしたことが記憶に残っています。

ハイデルベルグ市からの再招聘により、再び能公演を行う。

1991

全国哲門会(門弟の会)20周年大会を国立能楽堂で催す。

1993

十四世六平太記念財団の理事に就任。

「望月」を勤める。
シテ、子方ともに大役の難曲です。息子圭介と共演となりました。

1994

ドイツ、ハンブルグ国立工芸博物館において能装束展オープニング能を勤める。
ヨーロッパの重厚な建物で演ずる日本の文化、能の持つ芸術性の高さを誇りに思う公演となりました。

1995

全国哲門会25周年大会を国立能楽堂で催す。
北海道、東京、九州各地からお弟子さんにお集まりいただき、2日間の出演者数が100名を超える盛会となりました。

1996

ノルウェー王室より招聘、首都オスロで行われた「ウルティマ現代音楽祭」にて能「羽衣」を勤める。
最初にノルウェーでお能を、と話があったのは今回のオスロよりも遥か北の地で白夜の時に薪能をという遠大な計画でした。しかし、諸条件で実現が難しくなった矢先、王室より直々のお招きに預かることとなりました。

2000

喜多流15世宗家故喜多実生誕百年記念能にて「石橋」を勤める。
大恩ある師、先代宗家喜多実先生は1900年のお生まれでした。満身の力をこめて舞った記憶が残っています。

八ヶ岳薪能10周年記念能において「道成寺」を勤める。
壮大な神社境内、野外の池の上に建つ能舞台、長い長い橋掛かり、1600名の観衆の中、ということで四度目の道成寺はまた格別の思い出となりました。

「石橋」親獅子を勤める。

2001

復曲「風浪」の節付、型付をし、後シテを勤める。
昔あったといわれる曲を福岡県大川市にある風浪神社でそのゆかりにちなみ、復曲しました。

2002

ユネスコ世界遺産能楽認定記念能にて「羽衣」を勤める。
多くの外国の方々に日本の伝統文化を紹介する機会が与えられたことを嬉しく思いました。

2003

塩津哲生後援会の発足
多くの方から熱い支持を得て塩津哲生後援会が発足しました。会長には銀座資生堂社長(当時)故池田守男氏に就任いただき、全国から多くの入会を賜りました。伝統文化継承への思いを一層強くしました。

新作能「五輪書・武蔵伝」にて宮本武蔵役を勤める。

南仏カンヌ市日仏文化交流団体主催「日本の文化に触れる集い」にて、能の紹介をする。

パリ、モナビスマルク財団主催能装束展関連事業にて、在仏日本大使館広報文化セ ンターにおいて能講座を勤める。

第一回塩津哲生の会 正和能(しょうかのう)を立ち上げ「山姥」を勤める。

2004

ドイツ、マイニンゲン博物館・ライプチヒ大学にて能装束展関連講座にて、能「羽衣」を勤める。

2006

「 石橋・三ツ臺」を勤める。

2007

芸術選奨文部科学大臣賞受賞
観世寿夫記念法政大学能楽賞受賞

2008

紫綬褒章受章
「卒都婆小町」を勤める。
能の中の最奥と言われるのは、年老いた女性の姿を描く老女物、と呼ばれる演目です。
身体の動く男性が、弱り果てた女性の姿で舞うことの難しさを痛感しました。
どこまでも修行の世界、還暦を過ぎても新しい挑戦が山積みです。

2009

復曲「墨染櫻」を勤める

2010

重習曲「江口 平調返」を勤める。

2011

老女物「鸚鵡小町」を勤める。
次なる老女物を勤めました。

2018

三番目の老女物となる「檜垣」を勤める。

現在に至る

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