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Vol.04 「極限」

十四世六平太先生二十三回忌の別会能終了後の法要の折のお坊さんの話。「日本人でありながら恥ずかしいことに今日初めて能を観ました。そして強い感動を受けました。」と静かに語り始められ、永平寺での修行時代、朝三時半に起きて座禅、一汁一菜の食事でまた座禅、暑い夏も底冷えのする真冬も三百六十五日毎日休みなくその繰り返しが続くと、もう自分には耐えられなくなってくる。その極限に置かれた時の張り詰めた極度の緊張感感と同じ感覚を覚えた。世界は全く違うが能の舞台も大変な修練を積んだ人達の気迫のぶつかり合いがあって始めて心を動かすものであろう。素晴らしい感動を与えていただいてありがとう、と感謝の意を表わされた。
人間極限に達すれば不思議な力を発する、ということは時折読んだり聞いたりする。能のもつ神秘性というか能の核はここにあるように思えてならない。演ずる者が精神も肉体もその極限に到達せねば真の能にはならないのでは、との想いを常々抱いている。
十代の頃、内弟子の我々に先生は口癖のように楽をしてはダメだ、苦しまなくてはダメだと云われた。美しい天女を舞う時ですら肘を張って腰を引いて遠くに気をかけて、の連呼。悪鬼の形相で歯をくいしばって、云われたようにやらねば叱られるから、ただ夢中であった。天女が衣を翻すように優しくきれいに舞えば観る人は美しいと観てくれるであろうとその頃は思い込んでいたので、先生の教えに少なからず反抗的な気持ちを持った時代もあった。目に写るきれいな天女はそれだけでよいのかも知れない。しかし人の心を揺さぶり魂を動かす程の感動を起こさせるためには、身も心も根底から鍛えに鍛え、極限まで燃焼させたエネルギーが始めて観る人の心を動かすことができるもので、それが能の心であると信じている。この先到達することは無理な世界であるかも知れないが、そこに向かって只ひたすら歩み続けたいと思っている。
私は修行時代に忍耐ということの大切さを少しではあるが覚えたつもりでいた。しかし朝三時半におきて一汁一菜で一年間、の世界を聞くと穴があったらの思いと、新たな発奮の起爆剤として有難くこの言葉を聞いた。
国立能楽堂の能楽師養成の講師を引受けて今年で四年目になる。大勢の応募の中で厳選され、修行を始めた十二人も四年を経た今日僅か二人となった。落伍者の理由「足が痛くてとても」「面白くない」これがプロを志そうとする者の言葉であろうか。

一生は唯夢の如く
誰か百年の齢を期せん

皆さん悔いのない人生を

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