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Vol.05 「出を待つ」

能は日本が世界に誇る伝統芸術であるとの認識を持っている人は結構多いが、またその反面、難しい、解り難いと思っている人が大半ではないだろうか。
「百聞は一見にしかず」、先ず観て頂かなくてはならないが、能と名の付くものなら何でもよいというものではなく、能楽堂で秀れた演者の能を観たとしても、必ずしも感動するものでもないのでこれまた厄介なのである。しかし、いちど能の魅力を知れば、その感動を今一度と求めて、中々その思いを叶えてくれぬ脳に、足繁く通いつづける程の魅力を秘めていることは確かである。
いろいろ条件の厳しい北海道でも、心ある方々のご努力で能に関する催しが少しずつ増えていることは、誠に喜ばしく心から感謝申し上げる次第である。
ただ懸念されるのは、仮に機会があって能に触れたとしても、その能が観る人の心を動かすことがなければ、その人はもう二度と能を観る気を起こさないかもしれない。これは私共演ずる者の責任である。が観る側にある程度の心の準備を持っていただきたいとも思う。
おそらく異論もあろうが、私は能は演技を見せるというよりも、舞台に在るものが皆で作り出す「気」というか、日本人独特の魂から涌き溢れる、目に見えないエネルギーを、あの美しい面や装束を通して観る人に訴えるものであると思うのである。
能の役者にとってその芸、即ち舞、謡、囃子などの技を習得するのは、ほんの第一段階であって、その後の気力、精神力、心の鍛錬が舞台にあって重要な位置を占めるもので、それらが程よく相俟って初めて本当の能になりうると思う。
いうまでもなく能は総合芸術であり、いろいろの役が集まってひとつの能を創り出すのである、ひとりだけ秀れた演者がいても周りの者にそれに応ずる技量と気力がなければよい能たはなりえない。むしろアマチュアの集まりであっても、夫々の心が昂揚し、気力が充ち溢れて一つの魂になれば、素人の技量を超えた大きな力が観る人の心を打つことがあるのを私は度々知っている。
又最近は映像文化の時代でテレビやビデオでの能の放映もしばしばである。がいかなる名人といわれる人の映像を見ても感動を覚えることは滅多にない。姿のよさ、型の流れの美しさは見えても、それ以上のものは見えてこない。能の本質を理解してもらうためには、映像はむしろ逆効果ではないだろうか、何よりも実際の生の舞台に触れていただきたいと思うのである。
また、能を観る時にどうしても演劇としての捉え方をしてしまう人がいるのではないだろうか。ストーリーを追いアクションを求め、結末に期待を抱く…そのような観方をとるならば能は少しも面白いものではない。
一般的な能の舞台展開としては、冒頭旅の僧が、その時代を背景として、彼が訪れる地の風景描写を舞台の一処に佇んで謡う。ただそれだけのことである。あたりの景色、山々が写し出されるわけでもない。鏡板の松があるだけで、桜の花も紅葉の紅もない。それは観る人各の心の中に描きがされるものなのである。ここから能が始まるのである。ここが能の観方の原点であり、又能の魅力でもある。なんと無茶なと思うか、或いはなんと素晴らしいと思うか、観る人のとりようである。六百年もの昔にこれほど卓越した手法を取り入れた先人の偉大さこそ、能が世界に最も誇りうるところであろう。舞台に立つ旅僧の謡に、梅の花の香を聴き、或いはしんしんと降る雪を想わんとしても、舞台の後ろに黒い幕が垂れ下がり、ベニヤ板の張りぼての柱が立つのでは如何に上手の謡であっても無理なことである。
能を正しく鑑賞するために本物の能舞台(敢えてこう書くのは悲しいが)は、最低条件なのである。仮設の舞台では幾度演能の数を重ねてもかえってマイナスの面が多く出てしまうのであろう。
何はともあれ能楽堂を作るのが第一である。それからが私ども能に命をかけるものの本格的な出番ではないだろうか。

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